Tender 【優しさか弱さか】
彼女が笑顔で話す。
俺は悪態を含めながら笑顔で返す。
彼女が不安そうに話す。
俺は顔をしかめながら聞く。
彼女が泣き出した。
その震える肩を抱きしめる権利が俺にはなかった。
そしてまた彼女は笑顔で話す。
俺は悪態を強めながら笑顔で返す。
彼女が悲しそうに話す。
俺は眉間に皺を寄せて聞く。
彼女が泣き出した。
その震える肩を抱きしめる権利が欲しいと思った。
「またアイツ浮気したのか?」
小洒落た居酒屋でビールを傾けながら聞くと、向かいの席でが頷いた。
彼女から控えめな誘いが入る時は決まってこの話題だった。
俺の古い友人での恋人の性癖について。
もう何度目かも分からない。
ヤツに特定の彼女が居ないのならば、雄としては羨ましくなるほどの女性遍歴だ。
見習おうとは1ミクロも思わないが。
「それで、なんだって?」
「……ごめんって、やっぱが一番だって」
「……」
深いため息が出た。
一度、お節介を承知でヤツに苦言を呈した事があった。
その時の彼が言うには、色々な女性と比べないとが好きだと実感出来ないとかなんとか。
確かに「好き」という感情は曖昧なものだから、他と比べて推し量る事もあるかもしれない。
帰る先は一つだからと。そうやって続いていく恋人関係もあるのかもしれない。
現には今までの浮気を全て許してきた。
「もうやめとけ」「別れた方がいい」と助言をしても、悩んだ挙句に許してしまうのだ。
彼女はそれを「自分の弱さ」だと言う。
彼の囁く愛が少なくとも本当なのを知っているだけで、関係を絶てない自分が弱いのだと。
その度に俺は思う。
許し続ける事、それは弱さじゃなくて優しさだと。欠片の愛情でも掬い上げる優しさ。
そう言うと、は困ったように微笑むだけだった。
だからこのままこういう関係が続いていく、そういう恋愛なのだと諦め始めていた。
ため息を誤魔化すようにグラスに口を付ける。
「それで?」
許すんだろう、そう思いながらの顔を見た。
ところが彼女はグラスに視線を落としたまま首を横に振ってみせた。
少し笑っているような、今にも泣き出しそうな。
そういえば。
いつからだろう、彼女が泣かなくなったのは。
そんな事を考えながらゆっくり瞬いて、の続きを待った。
僅かな沈黙の後に口を開いた。
「もう、別れる」
「……なんで?」
待ちわびた言葉のはずなのに、面を喰らい過ぎて思わず聞き返してしまった。
「……相手が、」
彼女の口から出たのは、俺もよく知る名前で。
それはと仲の良い女友達の名前だった。
「……」
二の句が告げないでいると、がグイとグラスを大きく傾けた。
半分以上あった液体が流し込まれていく。
一気はやめておけ、と注意をするべきかまで頭が回らない。
「うん、美味しいッ」
グラスを飲み干して笑顔で大きく息を吐く。
それでも、その笑顔がやせ我慢だと分かってしまうから。
「そう」
素っ気無い相槌しか打てなかった。
そんな俺の心を読んだようにがクスリと笑う。
「雄二は優しいよね」
言われて応えに窮していると、また可笑しそうに笑われた。
優しいなんてとんでもない。
俺が優しいのであればもっと気の利いた事が言えたはずだ。
本当に優しければ。
縋り付いてくるその手を取らなかったはずだ。
寂しさと悲しさ、悲痛な思いが彼女を人の体温へと縋ろうとさせる。
酔いに任せてここで手を取るのは、肩を抱くのは間違っていると分かっているのに。
彼女の事を思うのなら、俺が彼女の言うように優しいなら。
「雄二は優しいね」
抱きしめた俺の耳元で聞こえた囁き。
ゾクリと頭皮が粟立ち、体温が上がる。
違う。違うんだ。
優しくなんかこれっぽっちもないんだ。
心の中でひたすらに否定を繰り返し、の口からまたその言葉が零れないように塞いでしまう。
俺が彼女の手を取るのも身体を引き寄せるのも、唇を重ねるのも肌を重ねるのも。
弱いからだ。
己の欲望に勝てない弱さ。
このままの心の隙間に居座り続けたいという浅はかさ。
「ゆう、じ……」
弾みで彼女の口から零れるのが自分の名前だと気づく。
もし俺の汚い弱さが浅はかさが、アイツの事を忘れさせるのであれば。
泣くまいと張っていた意地を解いてしまえるのであれば。
今までの関係が変わってしまうと分かっていても。
「……」
涙で濡れた睫毛にそっとキスを落とした。
後始末をしていると、まだ汗ばむ腕が絡んできた。
紅潮の残る頬に張り付いた髪。口紅のずれた唇に見とれているとその唇が動く。
「ごめんね」
小さい謝罪が、胸の奥をジリリと焦がした。
「雄二が断れないって分かってて……」
「俺は。俺は……とこうなる事ばっか考えてたよ」
食い気味に言葉を発する。
「……」
申し訳なさそうに視線を逸らすのは、俺の気持ちを知っていたって事でオーケーか。
溜め息を吐くと、そろそろと絡んでいた腕が離れていった。
布団の中でそれを捕まえる。
「悪いけど俺はこれを狙ってたから」
無理矢理引き寄せて体温を腕の中に収めてしまう。
驚いたように身じろぐに、聞かせる。
「お前とアイツが終わるのを待ってた」
「……ッ」
「弱ってるとこを付け入るつもりだった」
力なく胸を叩かれた。
いつか願ったようにの震える肩を抱きしめている。
「飲ませて優しくして、一人で帰れなくすればいけると思った」
漏れる嗚咽に、腕の力を込めた。
泣いていいから。俺のせいにしといて。
アイツの浮気を許せなくなって別れたんじゃなくて。
俺に奪われたから別れた事にしておいて。
そしたらは優しいままだから。
「雄二は……ほんとに、優しいね」
落ち着いてきた嗚咽の合間に零れた単語に目を瞑る。
すると顔を見てもいないのに、見透かしたようにが笑った。
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正当な手順を踏んでいない話。
動機がどうあれ僅かでも下心が混ぜればもう胸を張って優しさだと言い切れない弱さ。