ポジティブ・オブ・ザ・マイライフ


明るい人、というのはどこにでもいるもので。
彼女は単に明るいのではなく、『前向き』という意味で明るかった。
一にポジティブ、二にポジティブ、三四を休めばいいのにポジティブで果ては五までもポジティブとくる。
噂に聞くベストポジティビストを掻っ攫い、このままいけばポジティブ・オブ・ザ・イヤーをも受賞確定と騒がれている。
どこで騒がれているかって、勿論俺の中で、だ。
とにかく、彼女は俺の人生で出会ったどの人よりもポジティブなのは間違いなかった。
そうなるとポジティブ・オブ・ザ・サカイズライフなる賞を授与すべきなのかもしれない。
そんな賞、俺ならまったくもって欲しくないが。


初めて会った時、もの凄い人だと思った。
もの凄い人、と言葉にすると凡百な感じになってしまうが、それ以外に評しようがない。

いつだったか。
事務所の近くの公園前で止まっていたサンドイッチの販売車。
その場で作っているのかソースの良い匂いに誘われ、気づけば口を開いていた。
「「デラックスサンド」」
声が重なり驚いて横を向くと俺と同じに手を上げた女性が。
彼女も驚いた様子で、慌ててどうぞどうぞと前を勧めてくる。
「え、あ、どうぞお先に」
「いや、私の方が遅かったので、どうぞ?」
「えぁーむしろぴったり同時でしたよ? なのでどうぞ?」
互いに譲り合いをしていると、車の中のおじさんが困ったように笑った。
「二人ともデラックスサンドかい? 悪いんだけど、デラックスサンド一つしか残ってないんだよなぁ」
なんだと、と二人しておじさんの顔を見て、互いに目をやる。
どうぞ、と言ったのはやはり彼女からだった。
「いや、でも俺ここよく通るんで。次回にまた買いますよ」
「あ、それなら私も通るので……」
言いながら、先ほどの譲り合いと同じ状態に互いに苦笑いが漏れた。
すると彼女は思いついたように手を上げる。
「では、ジャンケンでどうですか?」
「あぁ、それなら……」
「一発勝負でいいですか?」
「あ、はい」
初めて会った人とジャンケンをする羽目になるのは稀有な体験だ。
妙な事になった、と内心笑っていた。
それじゃあ、と彼女が構えて口を開く。
「出っさなきゃ負けよ、ジャンケン」

ポン。

そう言って出されたのは俺の間抜けな程に開かれた掌のみで。
怪訝に思って彼女を見れば、楽しげな笑顔。
「私の負けですね」
「へ?」
ジャンケンをせずに負けとはどういうことか、と眉を潜めた瞬間に彼女の言葉を思い出した。
出さなきゃ、負けよ。
「え、あ! 出さなきゃ負けって?」
「はい。じゃあ、私は何にしようかな……」
まだ身に起こったことに信じられない俺はポカンとしたままおじさんを見る。
「やられたねぇ。で、デラックスサンドでいいのかい?」
笑い含みに聞かれ、慌ててお願いします、と頭を下げた。
出していたパーを、所在無さげに閉じたり開いたりして結局己の頬を掻いた。
「私、チーズとタマゴのサラダサンドでお願いします」
デラックスサンドへの未練など皆無な様子でニコニコと彼女は注文した。

只者ではない。
初めて会った女性にそんな感想は自分でもどうかと思うが、そう思わずにはいられなかった。
しかもその只者ではない彼女は、なんとヘルプとしてうちの事務所へと通っているというのだから余計に驚いた。


スタッフとしての彼女はよく走っていた。
細いその身体のどこにそんなバイタリティーがあるのかと首を傾げるほどに。
聞けば、
「食べた分だけ動かないと! それに動いた後のご飯は格別ですから」
そう返された笑顔は実に眩しい。
仕事の大半は雑用だったようだが、嫌な顔を見せずにパタパタと動く彼女。
彼女――さんの名前を出せば、誰もが「あぁ、あの娘」と和やかな笑顔を見せる。
「一生懸命だよねぇーちゃん」
そう呟いたのは安岡。
さんは床に張り巡らされているコードの一本を手際よくクルクルと巻いている。
セットチェンジの間の昼休憩に入ったところだった。
安岡の言葉に隣りの北山が笑みを浮かべながら頷いた。
「こう、見ててさ、こっちが元気になる人ってたまに居るけど、ちゃんはそれだよね」
「あー分かる分かる。絶対幸せになって欲しいなぁって思える子だよね」
そう笑ったのは黒沢さん。
やはりみんなにもそう見えるんだなぁ、なんてメンバーとさんを交互に見ながら頷く。
するとペットボトルに口を付けていたリーダーがおもむろに立ち上がった。
「オーイ、
呼ばれて手を止め振り向く彼女に、チョイチョイと手招きをする村上。
というか、いつのまにアンタはさんを呼び捨てするような間柄になったんだ?
「はい、なんですか?」
「もうそれ終わったら昼だろ? 昼飯、行こうぜ」
「あぁ、すみません今日は……」
なにやら言い淀みながら俺と目が会うと笑顔を見せる。
「いつぞやのデラックスサンドの販売カー、来る日なんですよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ買いに行かないとですね。あのデラックスサンド美味しかったですよ」
「ですよね、早く行かないと……あ、サンドイッチの販売カーがそこの通りに来てるんですよ」
昼食を誘ったのにも関わらず蚊帳の外な村上が怪訝な顔をしてたのに気づいて説明をする。
どうやらその販売カーは周期的に地域を回っているらしく、今日が丁度来る日、というわけらしい。
「はぁん? なにうめぇの?」
「美味しいですよ!」
さんのケチのつけようがない笑顔によって、我々の昼食のメニューが決定したのだった。

「お、来たね」
コンビニ組と分かれ俺と村上とさんで販売カーまで来ると、おじさんがさんの顔を見て笑いかけた。
「おや、あの時の兄さんも一緒かい」
俺を見つけ意外そうに言うおじさんに頭を下げる。
「私はデラックスサンド食べられるまで何度も来ます……けど、あぁ……」
メニューを見ながらさんの語尾が萎れていく。
デラックスサンドの文字には堂々と「売り切れ」の紙が貼られていた。
「アンタはいつも微妙にタイミング悪いんだよなぁ」
いつも? と眉を上げさんに聞けば、俺とのジャンケンも含め四度目だと言う。
「あれ、それなのにデラックスサンド食べてない?」
「そうなんですよー。ちょっとタイミングが……悪くて」
「一回目は兄さんに、二回目は売り切れで、こないだは子供に譲っちまってたよな」
これほどにタイミングが悪い客は初めてだと楽しそうに言う主人。
二度の失敗にも関わらず子供に譲ったのか……。相変わらず凄いお人だ。
「だが、落ち込む事ぁないぞ」
突然おじさんがにやりと笑った。
後ろを振り返り取り出したるはデラックスサンドの具材。
「え!?」
「きっとアンタが来ると思って、別にしてたんだよ。今回だけだけどな」
「わぁ、本当ですか!? ありがとうございます!」
感激したようにお礼を言う顔には笑顔が戻っている。
その場での調理が始まり、パンの焼ける匂いにソースの焦げる音。
ソースが沢山のキャベツに絡んで衣が薄めで肉の味がするチキンカツとの相性も抜群。
さらには卵まで入っていてサニーサイドアップかと思いきやポーチドエッグときたもんだ。
溶け出す黄身にこれまたソースがよく合う。
それを全部まとめてギュッとサンドする。まさにデラックスなサンドが出来上がる。
支払いを済ませた彼女が、満面の笑みを浮かべそれを受け取る。
「買えました!」
振り返った笑顔が輝かしい。
よかったですねぇ、なんてことしか返せない俺。
村上が口の端を上げてさんの頭を軽く叩いた。
だからなんでアンタはそんなに気安いんだ。
さんもお願いですから少しは嫌がる素振りを見せて下さい。
セクハラで訴えられるとゴスペラーズ的には困りますが個人的な拒絶くらいなら全然オーケーですので。
そんな俺の内心なんざ誰も察することなく、村上は勝手に注文を始めている。
一息落として自分も注文をしようとメニューを見る。
まだ昼時と言っても二時近いから売り切れもそこそこ出ているようで。
「俺はチーズとタマゴのサラダサンドと……」
「ローストサンドオススメです!」
「じゃあ、ローストサンド」
「あ、俺もそれ」
横から割り込む村上。
「アンタさっき別の頼んでたじゃないの」
「あれは黒沢達の。俺んはまだ」
言われればカレーの匂いが鼻を掠めた。
ドライカレーのペーストなのか。これもまた美味そうだ。
「いやぁ、さんの通いたくなる気持ちが分かりますな」
でしょう? と彼女が笑った。


「あ、お疲れ様です」
すでに日も落ちきったけれど続くライブの打ち合わせ。
村上のやる気に火が付いてしまったようで、いつになったら終わるのやら。という状況。
束の間の休憩にトイレから帰ってくるところで、帰ったはずの彼女が声を掛けてきた。
「あれ、帰ったんじゃなかったんですか?」
「みなさんきっと疲れてるんじゃないかと思って差し入れを」
「え!? わざわざ買って戻ってきたんですか!?」
「甘さ控えめですけど、とっても美味しいですよ」
そう言って渡されたビニール袋越しにほのかな温かさが伝わってきた。
「これは……タイヤキ、ですか?」
「はい!」
「あ、じゃあ丁度休憩ですから一緒に……」
「いえいえ、私はすぐ帰りますよ。お邪魔しちゃまずいので」
「え、あー、もう遅いですしね」
えぇ、ともう帰ろうとする彼女に慌てて己のポケットを漁る。
昼食のサンドイッチのお釣りをそのまま突っ込んでいたいくらかの小銭。
「じゃあ、せめて飲み物でも奢らせて下さいよ」
言いながら傍の自動販売機に小銭を入れる。
「そんな、悪いですよ」
「俺の気が済みませんから」
遠慮する彼女に、どうぞどうぞと場所を空ける。
おずおず困ったように笑って、何度も頭を下げながらミルクティーのボタンを押した。
「本当にありがとうございます、すみませんなんか」
「……」
「あ、あの……酒井さん?」
思わずまじまじと見つめていたら、眉を下げて見上げてくる。
誰かが言っていた言葉が思い浮かんでいた。
「……幸せになって欲しいなぁ」
「へ?」
「あ、いや」
何を口走っているんだ、俺は。
ぽかんとした彼女の不思議そうな瞳に、変な汗が全身から出る。
「誰かが言ってたもので……さんには幸せになって欲しいねーって!」
挙動が不審な俺をジッと見つめるさん。
一瞬の沈黙。のちに、彼女が噴き出した。
「アハハ、何ですかそれ」
「いや、ほんと……なんでしょうね」
視線が泳ぎまくっている俺に、今日一番の笑顔。

「私、今が一番幸せですよ?」


そんなんでまた俺の中でのさんの「只者ではない」感じがグンと上がり。
今の自分を「一番幸せだ」と言える人はこの世間に何人いるのだろうか、とモアトリアムなことを考えてしまう。
そう感じてはいても口に出すことが出来る人もまた、何人いるのか。
美味しいものを食べた時とか、熱い風呂に入った時とか、ライブが大成功した時とか。
瞬間的な幸せは沢山あっても、総括してどうだと聞かれると首を傾げるばかりな俺。
いや、一般的には幸せだと思うが。おかげさまで仕事はあるし、身体もいたって健康だ。
強いて言えば結婚か? いやそれは人それぞれだよな。多分。きっと。
ぐるぐると考えた結果、俺の中で彼女は「物凄くポジティブな人」という位置に落ち着いた。


その結果を受けて、俺の取った行動は。
「今日はどうです?」
顔を合わせる度に、その日の幸せ度合いを問いかける。
という控えめに考えても性格の悪いものだった。
そんな俺の質問にも彼女は毎回あの笑顔をくれるのだ。
「勿論、今が一番幸せですよ」
どうみても疲れている日にだって、
「今日は甘い物が一段と美味しく頂けそうです」
そう微笑むのだから頭が下がる。
「じゃあ、パンプキンデザートフェスがやってる店行きません?」
なんて誘ってみたりして。
正直言えば愚問を繰り返すのは彼女とコミュニケーションを取るためでしかなかったのかもしれない。
一番幸せだ、と答える彼女にもっと幸せになって貰えたら、と思っていたのだ。
この俺の行動が純粋な慈善や親愛なんてはずもなく。

すでに立派に恋というものに落ちていたのだった。

何度か食事を重ね、その度に幸せ度を聞けばいつだって彼女の答えは満点だった。
無闇に満点なのではなく、こういう嫌なことがあったけれどでもこんな良いこともあった、
という風にきちんと加減方式に則ったものなのにも関わらず、結局は満点だった。
だから俺はきっと誰に聞かれても結局はそう答えるのだろうと思っていた。
そんなものだから、朝スタジオで会った村上から、
「さっき幸せかって聞いたら、85点です、って言われたぜ」
そう聞いた時には心底驚いた。
物凄く体調でも崩しているのだろうかと、心配になるほどに。
さり気無く探してみたさんは具合が悪い風ではなかったので、村上と同じ質問をした。
「今が一番幸せですよ」
いつもなら安心する返事と笑顔に、どこか不安を覚えた。
もしかして、俺より村上の方が本音が言えたりするのだろうか、なんて。
実を言えば食事に誘ったさんの感触が非常に良かったので、多少なりとも自惚れていた節が無きにしも非ずで。
勿論社交的な彼女のことだ、他にも付き合いはあるだろうとは分かっているのだが。
彼女の方から誘ってくれたこともあり、ちょっとくらいは脈というものがあるのかと期待するのが男心というもの。
でもそれは全部彼女の「社交」の範囲であって、所詮俺は「食べ物の好みの合う知人」というカテゴリでしかなかったのだとしたら。
村上への85点が本音なのだとしたら。
「食べ物の好みの合う人」と「本音の言える人」ではどちらがそういう対象に近いかなんて、俺でさえ分かる。
「酒井?」
掛けられた声にハッとする。
僅かに心配するような表情の黒ぽんが目の前に居た。
「どうかした? 体調悪いの?」
「あ……おはようです」
「うん、おはよー。疲れ取れてないとか? 眉間すげぇ皺寄ってたよ」
練習スタジオの壁際で悶々としていた俺。
「ほんと?」
大げさに顔の筋肉を動かす。
昔一発芸的にやっていたおばあちゃんのような顔を作ると、黒ぽんが笑う。
「ライブまでそんなに間ないし、気をつけなー?」
「了解いたしました」
「なんかちゃんも風邪気味らしいし」
「え?」
荷物からペットボトルを取り出している黒ぽんに振り返る。
「幸せ度、95って言ってたよ。あのちゃんが」
驚くよねー、とミネラルウォーターに口をつけた。
いまやさんに幸せ度合いを聞くのは俺だけではなく。
俺から広がったのは確実なのだが、冷やかしのようにメンバーの間で流行ってしまっていた。
だから村上が質問するのもお決まりで、黒沢さんが質問するのもなんら不思議ではないのだが。
「95? さんが?」
「そう。100点満点じゃないのってあんまないじゃん?」
「というか……満点じゃないことって初めてじゃない?」
俺自身には満点で返ってきているのだけれど、そう聞いてみたくなった。
そうすると、黒沢さんは思い返すような顔をして、首を横に振った。
「いや、前に凄く疲れたって言って……何点だったかな、80点くらいだったことがあったはず」
愕然とする思いとはまさにこれのことで。
「でもそれでも80点切らないあたり凄いと思うよ、ねぇ?」
そう問いかけてくる黒ぽんに、生返事しか返せなかった。
スタジオには次々とスタッフが入ってきて、少し遅れた安岡も入りメンバーも揃った。
今日の流れの確認をして、曲のアレンジや音の調整、ダンスやパートの調整もしていく。
当たり前にさんもちょろちょろとスタジオと外を行ったり来たりしている。
相変わらずよく動く。風邪気味な様子も見た目には分からない。
それを見ていると、自分が考え過ぎているだけなのではないかと思う。
本音とか建前とかではなくて、そのときの気分でたまたま……そう、たまたま満点でなかっただけで。
俺に対してもたまたま満点が続いただけで……。
あぁ、もしかしたら俺にはそう言うのがネタになっている、とかそういうことはないか?
いくつもの可能性を考えれば考えるだけ苦しくなっていく。
なんか虚しくなってきた。
仕事中はなるべく考えないようにしても、自然と目が彼女を追ってしまう。
一瞬ぼうっとしていたのを村上に気づかれ注意され、慌てて邪念を追い出す努力をした。

仕事の内容もさることながら、個人的な問題もあり、なんだか今日は偉く疲れた。
ジャケットを羽織りカバンを閉じると、大きなため息が出た。
時計を見れば時間はこれから多少遅い夕食と言った時間。
お疲れ様でした、と頭を下げスタジオをあとにする。
通路を歩いていると、丁度向こうから帰り支度が済んでいる様子のさん。
先に上がる時は必ず挨拶をしていく人なので、まだ帰ってないだろうとは思っていたけど。
「あ、酒井さんも上がりですか? お疲れ様です」
「お疲れ様。さんも?」
「えぇ、スタジオとかに挨拶してからと思って」
そう笑ったさんの顔がやけに血色よく見えた。
じゃあ、と俺の来た方向へと歩いていく彼女の後ろ姿に、何か朝とは違う不安を抱く。
突っ立っているわけにもいかないので一応玄関へと足を向けるものの、途中の自動販売機の前で止まってしまう。
またそこで立っているだけなのもおかしいので、小銭を取り出して放り込む。
さり気なさを装っているが、当然のようにさんを待っているわけで。
ホットミルクティーのボタンを押している時点でさり気も糞もないと我ながら頭を抱えるが。
少しして、軽い足音が聞こえ振り返れば彼女がこちらに気づく。
「あれ、何か買ったんですか?」
すでに帰ったと思っていたようで僅かに驚いた風に笑う。
通路が薄暗いから分かりにくかったけれどやっぱり彼女の顔が薄っすらと紅い気がする。
「これ」
「あぁ、ミルクティー」
私も買おうかな、と呟く彼女に差し出す。
さんに」
「え、そんな。私貰えるようなことしてませんよ?」
「風邪気味だって聞いたから大丈夫かなって」
言えば、ハッとした顔で見上げてくる。
さんもしかして熱ありません? 顔紅いですよ?」
「あー……はい、実は今朝から微熱があったのが上がったみたいで……」
苦笑しながら頭を掻く彼女。やっぱり朝から辛かったのか。
それすら気づかずに、彼女の「満点」の真意がどうとか考えていた俺というやつは……。
少し悩んだが、彼女の様子を見て結局口にする。
「送っていきますよ」
「え?」
「俺車だし……さん電車でしょう?」
「でも、そんな迷惑は掛けられないですよ。酒井さんだってお疲れですし」
「じゃあ、あー心配なので送らせて下さい」
そう言ったときのさんのポカンとした顔。この表情は初めて見たな。
あとついでに、とミルクティーもその手に握らせるようにして渡してしまう。
大分困ったような顔をしていたので、引かれたかと苦い思いがよぎる。
これ以上押すのもしつこいと思われそうだし、どうしようかと焦っていると彼女が遠慮がちに口を開いた。
「あ、あの、本当にいいんですか?」
「え、えぇ!」
「じゃあ、本当申し訳ないんですがお願いしてもいいですか?」
「してもいいもなにも、俺から言い出したことですし」
そう、自分で言い出しておきながら、驚きで慌ててドキドキし出している。
えぇい、小心者。
「ありがとうございます」
そうお礼を言う彼女の微笑みはいつもよりも三割控えめだ。
先ほど缶を渡す時に触れた指先も予想以上に温かかったので、本格的に辛そうだ。
己のトキメキや下心を踏み潰して、即行で車へと案内する。
食事の帰りに彼女の最寄り駅まで送ったことはあったが、今日は家まで直接送る。
車を走らせながら助手席をチラリと見ると、ミルクティーを両手で大事そうに持ちたまに口をつけている。
「美味しいです」
俺の視線に気づいたのか、柔らかな笑みをくれるさん。
「それはよかったです。あ、さんご飯は?」
「まだです、あまり食欲がなくて……って、私が言うと嘘みたいですよね」
普段の食事風景を見ていれば至極もっともなので思わず笑ってしまう。
夕食は食べない、か。
「あ、寝てて大丈夫ですよ? 近くなったら起こしますし」
そんな、と最初は遠慮していたが、疲労と熱には勝てなかったようで少しして助手席から寝息が聞こえてきた。
途中でコンビニに寄って(一応声は掛けたが聞こえてないと思う)、あれこれ買い込んだ。
風邪薬に熱さましのシート、スポーツ飲料にお茶。
食べ物を考えるのに少々難があったが、「チンしておかゆ」という画期的な商品によって事なきを得た。
にしてもおかゆまでチンで出来るとは。一人暮らしに優しい社会になったものだ。
ついでに同じシリーズのパスタとリゾットを己の夕飯用に買ってみた。
一時間ほど走らせ、彼女の家の最寄り駅が近づいてきた。
約束通り隣りへと目を向けて声を掛ける。
さん」
ところが、返事がない。
赤信号の間にそっと肩に触れる。
「げ……」
熱くないか?
洋服越しにも分かるくらいってどれだけ熱が上がってるんだ。
「…………」
うっすらと目を開けるさん。
信号が青になったので慌てて車を発進させる。
さん、だ、大丈夫ですか?」
「…………」
俯いていた顔がゆっくりと上げられるが、その視線は定まっていないようで。
状況を把握しているのかいないのか、朦朧とした様子でこちらへと視線を移す。
いつもハキハキとしている彼女とは違う、とろんとした瞳。
寝起きだから、というだけでは当然ないだろう。
「あのー大丈夫ですか? 冷たいもの飲みます? スポーツ飲料とかお茶とかありますよ?」
後部座席のコンビニ袋を示しながら言っても、返事がない。
さん?」
「……」
きちんと俺に焦点が合っているのかどうか分からないが、彼女からの視線を感じる。
重い沈黙と熱い視線の温度差に困って、ハンドルを握る手に汗が滲んでくる。
「あの……具合はどうですか?」
いやいや悪いに決まってるだろ、と内心満身のツッコミを己に向けるが出てしまったものは引っ込められない。
またたっぷりと十秒ほど沈黙が続いて、何か言おうと口をもごもごさせていると。
「まんてん、です……」
「……へ?」
まんてんです。
ひらがなで耳に滑り込んできて、頭の中で変換を試みた。
「満点?」
それは彼女に幸せ度を聞いたときのテッパンの返事。
チラリとそちらを見れば、肯定するようにさんは微笑んだ。
「えぇっ?」
外の雑音に紛れそうな小さな呟きに、耳を疑う。
「今が一番幸せですよー……」
「熱があるのに?」
「……酒井さんが心配してくれて……送ってくれる……」
ゆっくりと紡がれる言葉。
「幸せじゃないわけ……」
ないじゃないですか、と続いた語尾は走行音に吸い込まれていった。
突然の告白に、驚きのあまり硬直する。
一瞬止まった(ように思えた)フロントガラスの景色にハッとする。
オレンジの街灯が相変わらずのスピードで過ぎていっている。
意識を飛ばしている場合じゃない。事故って魂が飛ぶはめになる。洒落にならない。
意識的にハンドルを握りなおして、なんと返せばいいのか考える。
さんの言葉を噛み締め反芻し、顔を通り越して耳まで熱くなっている。
交差点の赤信号で停止して、ようやく口を開いた。
「あ、あの……それは……」
どういう意味ですか。
自身の焦りを抑えて助手席に目をやると、彼女はまた俯いている。
そして、コントのオチのようにスースーと寝息を立てていた。
「…………」
「…………」
「……マジで?」
恐る恐る顔を覗き込もうとしたら、後ろからプァッとクラクションがしてドキリとする。
顔を上げれば信号が青に変わっていて、慌ててアクセルを踏み交差点を曲がる。
この道を真っ直ぐ行けば、もう駅に着いてしまう。
ここからはさんの案内がないと家まで辿り着けないのだが。
今の彼女は再び眠ってしまっていて、先ほど聞こえた言葉が寝言だったのか、なんなのか。
もう一度起こすのも微妙に憚られる気分でいると、フロントガラスに映った自分がすこぶる不細工な面をしていた。
嬉しいのかツッコミたいのか、起こしていいのかこの熱さをどうしようか。
そんな感情が百面相となって見事に表れていた。
「…………」
少しタイムを取ろう。
仕切りなおしというやつだ。
そう結論を出すと、駅のロータリーをグルリと旋回しその通りにあるコンビニの駐車場へと入った。
車を停めると彼女の様子を窺いながら降りて、コンビニで缶コーヒーを買った。
買って外に出て、その場で開けて勢い良く傾ける。
「……ッハァー」
さて。
どうしたもんか。
いや、起こすしかないんだけど。
起こして、家までの道順を聞いて、あの言葉の真意を聞こう。そうしよう。
もし、あの言葉が本当なら。
俺の心配を幸せだと、思ってくれているのだとしたら。
口元が歪むのを抑えて、グイと缶コーヒーを飲み干した。
運手席のドアを開け覗き込めば、まだ目を覚ましてはいないようで。
さん、すみません、起きて下さい」
意を決して乗り込み、その肩を叩く。
二、三度叩くとハッとしたように肩が動き、さんが目を開けた。
「駅、着きましたよ」
「……あ……ハイ」
その声が乾いたような感じだったので、思い出して後部座席からお茶を取り出す。
目を擦っている彼女へとペットボトルを渡す。
「喉渇いてません?」
「あぁ……ありがとうございます」
「いえいえ。寝てたのにすみません、どうしようか迷ったんですが」
「いや……私がすみません、寝ちゃって」
周りを見てどこか把握したようで、恐縮したように頭を下げるさん。
「じゃあ、いきましょうか」
聞けばマンションは車なら十分掛からないという。
車を走らせながら、彼女を横目に窺う。
変わらず顔は紅く、力が入らないらしくてペットボトルの蓋を代わりに開けたりもしたが。
衝撃の告白の時よりは意識がハッキリしている。
「そこを右の、すぐ見えてくる茶色いマンションを左で」
「…………」
ハッキリしている、はずなのだが。
先ほどの続きのような言葉が出てくる気配はなく。
「あ。あの、そういえばさっき……寝言のように呟いてたのって……」
そう探りを入れるように促してみれば、
「えっ、私なんか言ってました?」
なんて驚かれてしまって、果てに恥ずかしそうに照れ笑いをくれて。
「寝惚けててすみません、気にしないでやって下さい」
「……あー……」
あー。じゃ、ない。
「あ、そこを曲がって貰ったら……あれです、あの白いマンションです」
「おー、あれですかー」
マンションの横につけながらゆっくりと停車する。
お礼を言って車から降りるさんに、慌ててストップを掛けた。
「途中で色々買ったんですよ。熱冷ますシートとか、色々」
後部座席からコンビニ袋を引き寄せて見せる。
「え、私にですか?」
「えぇ、もちろん。いやー今はレンジでおかゆが作れるんですねー知らなかったです」
そう言いながら自分の夕食だけ後部座席に戻して、その他の入った袋をずいとさんの方へ向ける。
「そ、そんな。送ってもらっただけでもありがたいのに、ここまでして貰えませんよ」
ありがたい、か。さっきはそんな言い方してなかったんだがなぁ。
「いやいや。だって大変でしょう? あ、そうか重たいから持つのも大変ですよね」
「あ……えっと……」
「俺が持ちますよ」
「そんな……」
マンションと俺とを交互に見て困った顔をする彼女にハッとする。
「あ、いやっ、大丈夫ですよ? 運んだらマッハで帰りますんで!」
知り合いとは言え、俺は男なわけで。
彼女は女性であり、時間はこんなに遅い。そりゃそういう心配や警戒をするのは当たり前だろう。
何をボケているんだ俺は。
「もう、ほんと、そんなんじゃないのでっ」
そういう思いがミクロもなかったかと言えば嘘になります、が。
ですが、もう、今はそんなつもりは全く持ってありませんので。
しどろもどろに弁明する情けない俺の姿をさんはジッと見つめていた。
「迷惑でしたら、重たいですけど、あの、これ」
恥じ入って俯く思いでビニール袋を差し出すと、クスリと笑う声がした。
口元を押さえて控えめに笑うさん。
「ご、ごめんなさい。ちょっと可笑しくて……」
「あの」
「すみません、部屋までお願いしてもいいですか?」
「は、はいっ」
よかった、と心の中で二十回くらい繰り返した。
引かれてなくてよかった。本当によかった。
折角部屋まで運ぶことになったのだから、下心なぞ出してまた変な空気にならないよう用心する。
これを部屋の前まで運んだら、帰る。帰る。
前を行く彼女の背中を眺めながら呪文のように帰る事を心で繰り返した。
マンションにはエレベーターが付いておらず、階段を上がる。
さんの足取りが少し重いのを見て、恥を掻いてでも荷物運びを申し出てよかったと思った。
彼女に合わせるようにゆっくりと一段一段上がっていく。
これを運んだら帰る。
荷物を運んだら、帰らないといけない。
「三階なんですよ」
「あー、そうなんですか」
なんて気の利いたことも言えない。
二階を過ぎて、もうすぐ部屋まで着いてしまう。
着いたら、運び終わったから、帰らないと、いけないわけで。
心のぬか床に漬け込んで蓋をして重石を載せたはずの下心が何か言いたげにこちらを見ている。
下心というか、期待というか、邪念というか、邪まな気持ちというか。

「まんてん、です……」

あのさんの寝言。
帰ってしまえば真相は結局分からず終い、闇の中と相成る。
満点の真相。
満点、か。
さん」
「はい」
「あの……、調子はどうですか?」
三段下からの唐突な俺の質問に、一瞬首を傾げた。
「え? あ、あーっと、100点満点ですよ」
すぐさま合点が言ったように控えめな笑顔で返してくれる。
ここまでは期待通り。
「熱があるのにですか?」
「ですけど、普通だったら今頃まだ電車で帰るのもしんどかったはずですし……」
「……」
「そう考えたら送って頂けるなんて凄くありがたいですよ」
だから満点です。
「……そうですか」
全身全霊で笑顔を作ったつもりだったが、多分それは苦笑いだったに違いない。
ひっそりと嘆息していると、もう三階に着いてしまった。
通路を歩くさんが、もうそこですよ、と振り返って扉を指差す。
「酒井さんはどうですか?」
「へ?」
「調子、どうですか? 私セキは出てないですけど、うつっちゃったり……」
少し心配そうな瞳に、思わず口元が緩む。
自分が熱でしんどい時に、送り役の心配までするなんて。
先ほどのがっかり感がすっかり吹っ飛ばされてしまう。
心からの笑顔で「満点だ」と告げようとして、思い至った。

「今が一番幸せですよー……」
「……酒井さんが心配してくれて……送ってくれる……」
「幸せじゃないわけ……」

何度か食事を重ね、その度に幸せ度を聞けばいつだって彼女の答えは満点だった。


「…………」
「あの、酒井さん?」
扉の前までやって来て足を止める。
返事のない俺を心配そうに窺うさんを、じっと見つめる。
今まで聞いてばかりで聞かれたことがなかったから、全く持って気づかなかった。
会って話せるという状況で、己を気遣ってくれる。そんな事が幸せでないはずがない。
「……満点です」
「え?」
さんが聞くなら、俺はいつだって100点満点だ……ということに今気づきました」
自分でさえもたった今思い至ったばかりなので、驚きを隠せずそんな言葉になってしまう。
するとさんも少し驚いたような顔をして、
「それは……私と同じですね」
なんて事を言ってくれちゃうものだから、風邪がうつったわけでもないのに酷く眩暈がした。






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酒井さんが勝手にうだうだ悩み続ける話。かっこよくなく七転八倒するだけの話。
ちなみに彼女は酒井さんのデラックスサンドの頬張る様に惚れる、なんていう設定でした。
最近読み返してみて、私はかっこいい酒井さんが書けないんじゃないかと懸念しています。